年金をいただく身になって
釧路弁護士会会員 松浦 護

 適任ではないのに突然の申出を安請合いしてしまったと日々後悔していた本年1月13日,とうとう本原稿の正式な依頼文書が届いてしまいました。ところが,何と,2月13日に第1回目の年金を支給しますとの国民年金基金年金振込通知書も同時に届いたのです。偶然であったにしても,心憎いばかりの気配り。覚悟を決め駄文を認めることにしました。

 私が国民年金基金に加入したのは平成3年8月1日。つまり年金基金が設立された当初からの加入です。何と賢い判断をしたのかと自分を誉める現在の私ですが,実のところ,その当時,どういう経緯で年金基金に加入したのか全く記憶がありません。父が61歳の若さで突然死去してしまっている私は,せめて父以上には長生きしたいと漠然に思っていた41歳の頃のことで,将来の生活を手堅く設計していたという訳ではありません。おそらく日弁連の新規事業に気紛れで申し込んだのでしょう。顧問料が振り込まれてくる口座から自動的に掛金が引き落とされるようにしたことで,心理的な負担感はさ程覚えず,そのためか,いつしか年金基金に加入していることさえも忘れていたというのが正直なところです。
 再び年金基金に目覚めたのは,65歳を間近にした昨年10月のことです。前期とはいうものの,いよいよ「高齢者」の仲間入りする年齢に達することに重暗い気分でいたところに,各種年金の受給手続用紙が送られてきました。ぶ厚いうえに記載方法も難解な国民年金の手続用紙とは違い,年金基金のそれは記載が簡明なうえに支給額も国民年金よりはるかに多い。かつてブロック大会などで「いつまでも,あると思うな…」と情熱的なPR活動を繰り返していた田宮甫年金基金理事長の姿を想い出しました。なる程,こういうことを訴えていたのか。

 さて,いざ年金受給者になると,最大の関心事は健康問題となります。私は,今のところ幸いにも心配はありません。以前は,緊張を欠いた気ままな田舎の生活が祟り,御多分に洩れず,肥満の一途を確実に進んでいました。この流れを一変させたのは,日弁連副会長への就任です。北海道ブロックから推挙され,平成13年度の副会長をお引き受けしました。この時点での体重は80kgを優に超えていました。在任中,浅学の私は,21世紀の日本を支える司法制度を探る司法制度改革審議会の議論を無我夢中に拝聴するなどの毎日が続きました(最終意見書の発表は同年6月12日)。仕事以上に緊張しながら様々な論点を勉強する生活の中での息抜きは,皇居一周の早朝散歩でした。私の場合,交通便の悪さから,月曜日の最終便で上京してからはずっと東京に留まり,日曜日の始発便でようやく田舎に戻る政治家もどきの日々を繰り返しました。そんな中で,午前5時30分に定宿としていたラフォーレ麹町を出て,最高裁判所前から皇居周回路に入り,そこから一周する1時間強の散歩が日課になりました。桜がきれいな程よい季節,ビルの谷間から現われる真っ赤な太陽は,喧騒の東京しか知らなかった私にはたまりません。散歩する度に新たな発見もあります。これが病み付きとなって,結局,任期が終了するまでの一年間,東京にいるときは必ずこの散歩を繰り返しました。するとどうでしょう。身体が締って,体重が徐々に減り始めたのです。就任時にはAB体の背広だったものが,退任時にはA体に変わっていました。体重が落ちると気分も爽快になり,何だか若返ったような錯覚になります。すっかり虜になって,以来田舎に戻ってからも今日まで継続してきています。流石に気温差が激しい北海道ですので,住宅の中に運動器具を据え,そこで年中変わらず毎朝,40分をかけて4kmのウォーキングをします。その御蔭で,現在は65kgを下回っています。ゴルフならエイジシューターだと内心自慢しています。そして肥満気味な地元若手会員には「日弁連副会長になって健康体になれ」と余計な発破を掛けています。
 流石に高齢者となって,以前のようにバリバリという訳にはいかなくなってきました。しかし,年金をいただく身になった今,支払の確実な顧問先が新たに増えたような気持で,もう暫くはこのまま仕事を続けようと思っているところです。

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陽だまり 2015 No43より